2006年2月7日火曜日

なぞなぞ(社会学系):なぜニッポンの成金は刹那的に金を使うのでしょうか?



う〜ん、とても面白い。紀田順一郎先生の問いかけ:
ああ、ニッポンの成金は: "欧米では巨額のカネをもうけたら、多少は蔵書機関やホールなど公共施設に名をのこそうとします。最近でこそ、ジェット機何台というように矮小化しているものの、まだ射程距離の長い使い途を考える風土はのこっているようです。日本では若干の美術館の例がありますが、もとは利殖からで、100パーセント公共の精神からではないでしょう。なぜ日本の成金は、刹那的な浪費ばかりを考えるのでしょうか。"
江戸時代からそうだったらしい。料亭で大散財。なぜなのか、小生もわからなかったが、ようやくわかった。

紀田順一郎先生によれば、こういうことらしい:
■国民性ということには相違ないのですが、こうした性格をつくりあげたものは、長い長い鎖国時代を通じて、上昇志向や一定の努力が、巨大な壁のような支配社会体制によって全面的に阻まれてしまう風土をつくりあげてしまったのです。福沢諭吉が「封建制度は親の敵(カタキ)でござる」といったその言葉には、血を吐くような怨念がこもっていたといえましょう。
 
■江戸時代の商人は、いくら稼いだところで、社会の上層には参画できません。階級的な地位が低かったからです。ここにもうけを絶対に公共に還元せず、衝動的に濫費するのが当然、どこが悪いという感覚が生まれたのです。市民的革命を経た西欧ブルジョアジーとの決定的な差異といえましょう。
 
■明治以降の日本社会は、擬制の近代化により、いちおう平等とはなりましたが、その体質から再び新たな支配関係が生じ、立身出世という競争システムを通じて能力の選別を行うようになりました。それは戦後数十年の現在も綿々として続くどころか、むしろ強化され、結果として「勝ち組」だの「下流社会」だのという、とんでもない差別的な観念まで造出してしまったのです。

そうか、現代までも延々と続いているのだ。

別のエントリーのコメント欄で、農村と都市部のライフスタイルの違いについてのやり取りがあった。散人が思うに、都市住民は逆立ちしても農村住民のストックの豊かさや生活の質の高さを手に入れることが出来ない。それは制度的なものである。農村への新規参入が認められていないので、ホリエモンぐらい稼いだとしても、広大な農地を自分で買って「自分の荘園(楽園)」を作ることは出来ないのだ。稼いだカネは、生活環境の悪い都市部で「宵越しの金は持たない」とばかり、バ〜と使うしかないのである。表面的な消費生活は豊かになるが、後に何も残らず、遣ったお金は結局農村部に回り、彼らをなお豊かにし、彼らに日本の支配階級という地位を固めさせることになってしまう(歴代総理大臣を見よ)。

日本は昔から何も変わっていないようだ。

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